カンテフラメンコ奥の細道 on WEB no.58
- 6 時間前
- 読了時間: 3分
(miércoles, 11 de marzo 2026)
文/エンリケ坂井
Texto por Enrique Sakai

Malagueña de Chacón まとめ編
続、チャコンの後半生
チャコンは1912年にマドリードへの移住を決心し、首都を本拠として活動する事にしました。
当時から1980年頃まではアンダルシアのアルティスタ達がこぞって仕事や名声を求めて首都に移動し、マドリードはまさにフラメンコの中心地という雰囲気があった時代でした。
そしてチャコンの名声が不動のものとなるにつれ、彼のアルテを愛する人達、マヌエル・センテーノ、ペペ・デ・ラ・マトローナ、ペリーコ・デル・ルナール…etc.といった人達も続々とマドリードにやってきたのです。
活動は多岐にわたり、劇場公演、フェスティバル、カフェ・カンタンテ、コルマーオでは「ガブリエーレス」後には「ビジャ・ロサ」などでのフエルガ、時には国王のレセプションに招かれて歌っています。
その評判は南米にも届き、1914年船でアルゼンチンに渡りブエノス・アイレスを始めモンテビデオなどで30以上の公演を行い大きな成功を収めました。
1922年にはグラナダのカンテ・ホンド・コンクールの審査員や客演、翌年にはウエルバの同様のコンクールにもゲストとして招かれ、マドリードのコンクールではバジェーホに「カンテの金の鍵」を渡しています。
どんな催し物でもチャコンはフラメンコの大看板として発展に尽くし、1929年1月21日にマドリードで没しました。
チャコンが録音した他のマラゲーニャなど
これまでチャコンの5種類のマラゲーニャを取り上げましたが、スタイル①には他にA dar gritos me ponía(叫ばずにはいられなかった)とDe aquella campana triste(あの悲しい鐘の音)、②はひとつの歌詞のみ、③にはQue te quise con locura(お前を熱愛した)、④はNo me habías de conocer(知り合うべきではなかった)、そして⑤には同じ歌詞ですがニーニョ・デ・カブラ版があります。
さてチャコンが歌ったもので現在ではこれがチャコン作か、ガジャリート、又はカナリオかマヌエル・トーレか未だに不明のスタイルがあり、今回はそれを取り上げます。
【Letra】
(se me apareció la muerte,)
Cuando intenté el〈olviarte〉
(a mí)se me apareció la muerte,
como la〈vía〉amable
yo volví de nuevo a quererte.
【訳】
あんたと別れようとしたら
死神が私の前に現われた、
しかし人生は優しかった、
再びあんたを愛することができたの。

このスタイルはぺイネスの全集でもモレンテの録音、その他の録音でも今までチャコンのスタイルとタイトルが付けられてきましたが、最近の研究で恐らくチャコンのスタイルではないという事が解ってきました。
何故チャコンのスタイルと信じられてきたのかは定かではありませんが、恐らくはチャコンに非常に近かったマヌエル・センテーノといった人達が歌っていたので、周りがこれをチャコンの作だと信じたのではないかと思われます。
【筆者プロフィール】
エンリケ坂井(ギタリスト/カンタオール)
1948年生まれ。1972年スペインに渡り多くの著名カンタオールと共演。帰国後カンテとパルマの会を主宰。チョコラーテらを招聘。著書『フラメンコを歌おう!』、CD『フラメンコの深い炎』、『グラン・クロニカ・デル・カンテ』vol.1~37(以下続刊)。2025年1月Círculo Flamenco de Madridから招かれ、ヘスス・メンデスと共演。
※CD『グラン・クロニカ・デル・カンテ』シリーズを購入ご希望の場合は、アクースティカ(https://acustica-shop.jp/)へお問い合わせください。(編集部)
======


