カンテフラメンコ奥の細道 on WEB no.48
- norique
- 5月11日
- 読了時間: 3分
(domingo, 11 de mayo 2025)
文/エンリケ坂井
Texto por Enrique Sakai

Malagueña de La Trini ①
今回からメジーソ同様に好んで歌われるラ・トゥリニのマラゲーニャを取り上げます。
メジーソは男性に好んで歌われる傾向がありますがトゥリニは創唱者が女性だという事からか、女性に人気があるようです。
ラ・トゥリニは本名Trinidad Navarro Carrillo(トゥリニダー・ナバーロ・カリージョ) で、トゥリニはトゥリニダーの愛称。
生まれたのはマラガ市で1866年説が最近では有力ですが1868年、1870年説もありはっきりしません。
フェルナンド・エル・デ・トゥリアナが1935年に発表した「アルテ・イ・アルティスタス・フラメンコス」を始め、多くの研究者が残した評伝などでその人生が伝えられています。
それによれば(当然ながら)子供の頃からその歌声は評判を呼び、地元のカフェ・カンタンテ等で歌い始めたのですが、最も古い記録では1883年(17才?)にグラナダのカフェ・カンタンテに出演しています。
恐らくはマラガでの評判がアンダルシア各地に伝わり、他の都市の店からも声が掛かって活躍するようになったのでしょう。
1880年代前後といえばカフェ・カンタンテの全盛時代であり、マラガ地方のファンダンゴであったマラゲーニャが独自の発展をとげ自由リズムのマラゲーニャとなってファン・ブレバ、メジーソ、フォスフォリートなど、多くのマラゲーニャのスタイルが生まれる「マラゲーニャ発展の時代」でもあったのです。
1890年頃にはセビージャのカフェ・カンタンテと契約、その前後に生まれ故郷のマラガで歌っているトゥリニをフェルナンドは直接聴いてその華やかなカンタオーラぶりを書いていますが、恐らくはこれより若い時期にトゥリニは不幸な出来事によって片目の視力を失い、それ故にか当時としては危険な外科手術を受けることになったのです。そのいきさつは次回に。
トゥリニはいくつかのマラゲーニャのスタイルを作りました。区別するために例によって番号を付けますが、まずは最も好んで歌われるスタイル①の中でも一番よく知られたレトラを以下に書きます。
【Letra】
(ay, haciendo por〈olviarte〉...)
Creí que adelantaría
ay, haciendo por〈olviarte〉,
cuando pasaron tres días
como un loco fui a buscarte
ay, porque sin ti no vivía.
【訳】
この苦しみを何とかしようと
お前を忘れることにしたが、
だけど3日経ってみたら
気が狂ったようにお前を探した、
お前なしでは生きられぬと知って。
※hacer por ~⇒~しようと努める


【筆者プロフィール】
エンリケ坂井(ギタリスト/カンタオール)
1948年生まれ。1972年スペインに渡り多くの著名カンタオールと共演。帰国後カンテとパルマの会を主宰。チョコラーテらを招聘。著書『フラメンコを歌おう!』、CD『フラメンコの深い炎』、『グラン・クロニカ・デル・カンテ』vol.1~35(以下続刊)。2025年1月Círculo Flamenco de Madridから招かれ、ヘスス・メンデスと共演。
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