(jueves, 6 de febrero 2025)
文・写真/志風恭子
Texto y fotos por Kyoko Shikaze
新年早々立て続けに飛び込んできた訃報もあってか例年よりも、なんかどんよりした1月です。
スペインも日本同様、四季があり、訪れる季節によって印象がかなり変わると思います。アンダルシアというと太陽さんさん、いつも青空、というイメージがあるかもしれませんが、冬のセビージャは雨の日も多いのです。東京の冬は乾燥していますが、セビージャの冬は湿気があって洗濯物も乾きにくい日々が続きます。雪こそ滅多に降りませんが(1954年に降ったことがあるそうです)、最低気温が0度になることはあります。
スキーと海水浴を1日のうちに楽しめる、という謳い文句もあるグラナダは、シエラネバダのスキー場がありますし、市内でも降雪はそう珍しいことでもないようです。ちなみにグラナダでスキーと海水浴が同じ日にできるとすれば3月限定なのではないでしょうか。かつてはワールドカップの開催地ともなったシエラネバダですが、温暖化の影響もあってか最近は雪不足もあったりするようなので、年々難しくなっているかもしれません。
《INDEX》
【ペーニャ・トーレス・マカレーナ】
アンダルシアでは夏はフェスティバル、冬はペーニャでフラメンコを楽しむというのが定番。セビージャの老舗ペーニャ、トーレス・マカレーナでも毎週、たくさんのイベントが開催されています。水曜金曜に舞踊、木曜はアフィシオナードの日、土曜にカンテというのが定番で、1月はエル・チョロやモネータらも出演。また土曜のカンテはラ・ウニオンのコンクールで大賞、ランパラ・ミネーラを受賞した、ヘスス・コルバチョ、リカルド・フェルナンデス・デル・モラル、アンパロ・エレディア、マリア・ホセ・ロペスが出演。これらの他にも、日曜午後にライブ付きの講演会なども開催しています。
1月19日には詩人でフラメンコ研究家、元セビージャのビエナル監督でもあるホセ・ルイス・オルティス・ヌエボの『エン・ミ・クエルポ・マンド・ジョ』出版記念で、カルメン・ガルシア伴奏でサラ・オルガドが書籍に収められた歌詞を実際に歌いながら、お話しするというイベント。カンテ・デ・レバンテやバンベーラ、シギリージャに乗せて歌われるのは、フェメニズム的というか、女性も男性と同じ、といった内容。

2025Torres Macarena,Sevilla ©︎Kyoko Shikaze
Entre sábanas de Holanda
yo te lo quiere decir
Que si m´acuesto contigo
Es porque así soy feliz
オランダのシーツにくるまり
あなたに言いたい
あなたと寝るのは
それが私の幸せだから
No quiero fidelidades
Fragiles y quebradizas
Prefierolas lealtades
y el abrazo de tu risas.
貞節はいらない
壊れやすくて脆いもの
誠実の方がいい
あなたの笑顔の抱擁がいい
【ミゲル・ペレスに捧げる】
1月26日、セビージャのアラメーダ劇場で、1年前に亡くなったミゲル・ペレスへのオメナヘ、オマージュ公演が開催されました。愛にあふれた、これまでに私がみてきた中で最も素晴らしいオメナヘでした。

オープニングの、ミゲル在籍時のアンダルシア舞踊団での同輩ギタリスト、ハビエル・コンデのギター、フアン・ホセ・アマドールの声とともに、踊り手である夫人、エレナ・マルティンによる彼を失った悲しみを語りながらのマントンの舞に始まり、エスペランサ・フェルナンデスが歌いイサベル・バジョンが踊ったフィン・デ・フィエスタに至るまで、二人から五人のグループでの群舞の間にサルバドール・グティエレス、ラファエル・ロドリゲスのギターソロとビデオ上映と、よく考えられた構成で2時間、しっかりみせてくれました。
オメナヘについてスペイン語の辞書には敬意、敬意を表する催し、とありますが、人や物事への敬意を表すためというだけでなく、病気などで経済的に困っている人への資金集めで開催されることもあります。基本出演者はノーギャラで、それもあってか、告知されていた大物アーティストが出演しなかったり、出演者がそれぞれやりたい放題やっていつ終わるのかわからない、などこのということもままある、というのはスペインの観客の暗黙の了解、だったりもするのですが、今回はそんなことはもちろんなく、このポスターに名前が掲載されているアルティスタのほとんどが出演、それも、一人一曲歌ったり踊ったりするのではなく、普段、ソリストとして劇場やタブラオで活躍している人たちが、一緒に踊っているのです。ということは、この日のために、振り付けを考え、稽古をしていたわけで、お金がもらえるわけではなく、むしろ他の仕事の時間を削ってまで参加しようと思ったアーティストがたくさんいたわけで、それだけミゲルへの想いが強かったということだと思います。
ミゲルの伴奏でウニオンのコンクールで優勝したフェルナンド・ヒメネスがアルベルト・セジェスら五人の男性舞踊手で踊ったファルーカ、三人の女性歌手の伴唱で萩原淳子がラウラ・サンタマリアらと踊ったアレグリアス、マヌエル・ベタンソスとアンドレス・ペーニャのロンデーニャ、年始早々、フランス、チリとアンダルシア舞踊団での海外公演を終えたばかりのパトリシア・ゲレーロとアナ・モラーレスがバタで踊った最前線ファンダンゴ、ルイサ・パリシオ、スサナ・カサスらによるバタとマントンのソレア。それぞれに魅力的でもう一度観たいくらいです。
終演後、出演者の一人に「誰も自己主張せずやっていたのが良かった」と感想をも伝えたところ、「ミゲルがそうだったからね」と返事。ああ、そうでした。自分が、自分がと前に出ることもアーティストにとっては必要なことでもあるのだけど、彼はいつもどうすればより良いフラメンコになるか、を考えて演奏していた人でした。その彼に伝えようという皆の気持ち、空の上にもきっと伝わっていることでしょう。

アンコールで、エレナ夫人、娘さんを真ん中に出演者たち ©︎Kyoko Shikaze
2024年1月22日、突然の心臓発作で亡くなったミゲルは・ペレス1960年セビージャ生まれ。マノロ・マリンの教室での稽古伴奏やタブラオ、ロス・ガジョスなどで活躍。多くの舞踊家たちの公演を支えてきた舞踊伴奏のエキスパート。日本へも小松原庸子スペイン舞踊団公演やタブラオ、新宿エル・フラメンコ出演するなど、何度か訪れています。萩原淳子や石川慶子など日本人舞踊家をはじめ、フェルナンド・ヒメネスやレオノール・レアルらのコンクール伴奏もしています。日本人に限らず、チリ出身のハビエラ・デ・ラ・フエンテの作品の伴奏をするなど、セビージャ在住の踊り手たちを幅広く支える存在でした。
そんな彼のために、セビージャのアーティストが集結し、最高のフラメンコをみせてくれました。公演の構成演出を担当し、裏方に徹した踊り手ルシア・アルバレス“ラ・ピニョーナ”の手腕あってのことだったと思います。ありがとうフラメンコ、ありがとうミゲル。ミゲルのおかげでこの夜フラメンコを愛する仲間は一つの大きな家族みたいなものだと改めて知ることができました。彼は地上にいなくても、今も皆を支えてくれているのだと思います。
【訃報】
かつてないほどに訃報が続きました。相次ぐ訃報に気持ちが落ちてしまったのは私だけではないでしょう。
1月3日、踊り手ラ・チュンガが、多臓器不全のため、86歳で生涯を終えました。10年前に肺癌と診断されていました。
本名ミカエラ・フローレス・アマジャ。1938年スペインのヒターノの両親のもと、フランス、マルセイユで生まれ、1歳でバルセロナに移り住み、子供の時から、最初は通りやバルで裸足で踊ってお金を稼ぎ、裸足の舞姫として注目され画家ダリら、カタルーニャのインテリたちのミューズとも言われ、映画にも出演。ルンバを得意とし、マドリードのタブラオ、カフェ・デ・チニータスの看板スターとして長年活躍しました。晩年は素朴な絵画の画家としても活動していました。

1988年マドリード カフェ・デ・チニータス ©︎ Kyoko Shikaze
映画『レイ・デ・ラサ』でグラン・アントニオと踊るチュンガ。この映画の監督は夫君でした。
1月8日夜9時にエル・グイトが亡くなったという知らせを受けたのは10日のことでした。

La Bienal Septiembre es Flamenco- Real Álcazar de Sevilla 2015 ©︎Antonio Acedo
本名エドゥアルド・セラーノ・イグレシアス。1942年マドリードの下町生まれ。幼い頃から踊り、映画にも出演。その後、アントニオ・マリンらに学びピラール・ロペスに見出され、彼女のスペイン舞踊団へ。アントニオ、ガデスやマリオ・マジャらと共演した。70年代にはマリオ・マジャ、カルメン・モーラとのトリオ・マドリードで、その後はソロで、また自身のグループで各地のフェスティバルやタブラオなどで活躍しました。1978年、スペイン国立バレエ初代監督アントニオ・ガデスに招かれ創立メンバーとなり、ガデスの映画『血の婚礼』にも出演しています。グイトといえばソレア。動く前から美しい完璧な姿勢、たたずまい。男性舞踊の粋そのもののあのソレアは永遠にフラメンコのお手本として記憶されることでしょう。国立バレエでのガラ公演の時のを置いておきます。映像の質は良くないですが、全体の感じはよく分かると思います。
10日にはグラナダのギタリスト、ミゲル・オチャンドが亡くなりました。

Con Carmen Linares Málaga en Flamenco 2007 ©︎ Kyoko Shikaze
本名ミゲル・モリーナ・マルティネス。1965年グラナダ、レアレホ地区で生まれ、子供の時からギターを弾き、1984年ラ・ウニオンのコンクールで準優勝。元々ソリスト志向だったようですが、エンリケ・モレンテ、カルメン、リナーレスなど第一線で活躍する歌い手たちへの伴奏で知られます。勘所をきちっと抑えた伴奏、どこか悲しみを讃えた繊細で美しいソロ。というのはこのバルセロナでの演奏でも分かるのではないでしょうか。
まだ59歳。肝臓がんとのことですが、本当に早すぎます。
と嘆く間もなく14日にはやはりギタリスト、ウエルバ出身のホセ・ルイス・デ・ラ・パスが亡くなりました。彼はオチャンドよりさらに若い、1967年セウタ生まれ。まだ57歳という若さです。

Sevilla 2009 ©︎Kyoko Shikaze
本名のホセ・ルイス・ロドリゲスの名前で1995年から長年クリスティーナ・オヨス舞踊団のギタリストとして活躍。『ティエラ・アデントロ』や『イエルマ』などの作品の音楽を作曲。また、ベレン・マジャやイサベル・バジョンらの伴奏でも活躍しましたが、2010年頃にアメリカに渡りマイアミ在住。ソロ活動を中心に、彼の地のアーティストとも共演するなどしていましたが、24年11月に腎臓がんが発覚し入院中でした。
3歳からウエルバ在住で出身はウエルバと自負していた彼に、1月25日、ウエルバの日に、ウエルバの芸術章が贈られ、弟ホルヘが代わりに授章式に出席しました。彼が演奏するファンダンゴ・デ・ウエルバを。2004年カナルスールの番組での演奏です。
また、1月29日にはかつてラファエル・アギラール舞踊団などで活躍したダンサーで、振付家、デザイナーとしても活躍してきた、フアン・イダルゴも亡くなりました。セビージャ生まれ。1989年スペイン国立バレエ団に在籍、退団後は主にラファエル・アギラール舞踊団で活躍。1992年の日本公演での『カルメン』世界初演に際し、コンセプト、カルメンの男のみたカルメンの中の女という役で長身の彼が女装で出演し注目されました。

左から三人目赤い衣装がフアン1992 ©︎ Kyoko Shikaze
パルマ・デ・マジョルカのカジノのショー出演をきっかけに長年マジョルカに住み、クラブやのショーの振り付けや芸術監督、舞踊教授などで活躍し、その地で亡くなったといいます。ご冥福をお祈りします。

Ballet Nacional de España 在籍時の写真
【筆者プロフィール】
志風恭子(Kyoko Shikaze)/1987年よりスペイン在住。セビージャ大学フラメンコ学博士課程前期修了。パセオ通信員、通訳コーディネーターとして活躍。パコ・デ・ルシアをはじめ、多くのフラメンコ公演に携わる。
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