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小島章司 《Toda una Vida ~一生涯~》

Flamencofanインタビュー

 

(martes, 2 de abril 2024)

 

昨年3月にスペイン・ヘレスのフェスティバルで招聘作品を世界初演し、同月の一般社団法人日本フラメンコ協会(ANIF)主催によるアニフェリア公演にも協会作品に出演。また11月には、門下生の北原志穂との共演で2日間の公演を成功させ、12月から今年の1月までANIF主催の全6都市を回る全国公演ツアーに全日程出演するなど、精力的に舞踊活動に取り組むフラメンコ舞踊家、小島章司。

昨年の活動を中心に、舞踊家としてのこれまでの足跡や日常について話を伺った。


聞き手/金子功子

Entrevista por Noriko Kaneko

 

【INDEX】


小島章司 第27回フェスティバル・デ・ヘレス
Foto por ANA PALMA

  今回のインタビューは昨年11月の公演が終わった後の、秋から冬へ移り変わろうとする季節のとある晴れた日に、小島のスタジオで行った。


 スタジオに入ると、天井の高い広い空間の壁面に、端正な青年時代の大きな肖像画が掛けられていた。それは、まだ学生だった頃の小島を描いたものだ。


「この絵は東京オリンピック前後のとき、大学を卒業する前後です。描いたのは私の友人で、私がスペインに行ったのと同時期に、彼は「油絵はフランスだから」とパリへ行きました。私は武蔵野音大で声楽を学んでいましたが、気が多かったのでバレエやパントマイムをやったり、ミュージカルやオペラの勉強をしたり、いろんなことをやりました。1960年代にミュージカル映画『ウエストサイド物語』を見て主演俳優に憧れ、大学4年の頃はミュージカルに行くかフラメンコ舞踊に行くか決めかねていました」


 当時、日本では初めての東京オリンピック開催(1964年)に沸いていた時代。その頃に、小島にとって運命の出会いの数々があったという。


「映画『ロス・タラントス』のカルメン・アマジャを見て、それが心に刺さりました。アントニオ・ガデスも流麗極まりないファルーカを踊っていて、劇場のフィルムの中からでもその美しさが伝わりました。そしてカルメンも素晴らしくて、彼女の踊りだけではない身のこなしや所作、内から湧いてくるエネルギ-に圧倒され、フラメンコに行こう、と決めました。その頃私は音大で声楽をやっていて、オペラ『フィガロの結婚』やシューマンの『詩人の恋』、シューベルトの『冬の旅』など全曲歌ったりしましたけど、歌を一生続けていくことに、自分の中では強い何かが欠けていたんでしょうね。そんなときにフラメンコと出会い、また友人もフランスに行くというから、それなら自分もスペインに行けばたまには会えるのでは、と軽い気持ちでスペインに行きました。

 当時シベリア鉄道で行ったのは、それが一番安かったからです。その友人が先にパリに行っていたので、そこに泊めてもらえば宿代も節約できるから2~3日泊まらせてもらいました。そこでパリの文化事情も少し勉強して、また汽車に乗ってスペインのマドリードに向かいました。1966年のことです。当時はやっぱり希望に溢れていたし、若さと向こう見ずさと(笑)。今は思慮深くなってしまって、そういうことはできなくなりますね。思い出の旅です」


 声楽家への道からフラメンコの世界へと、人生の進路を大きく変えた小島。その後の苦労や活躍の足跡は、長くフラメンコに関わっている方々ならよくご存じだろう。

 日本とスペインで数々の作品を上演し、2011年からはフェスティバル・デ・ヘレスにも何度も招聘され、一番大きなビジャマルタ劇場を舞台に『ラ・セレスティーナ』や『運命の力』、『フラメンコナウタ』、『ア・エステ・チノ・ノ・レ・カント』などの大きな作品を披露してきた。

 そして昨年3月に行われた第27回フェスティバル・デ・ヘレスでは、招聘作品『トダ・ウナ・ビダ ~一生涯~』を世界初演として上演し、高い評価を得た。


「今回の出演はヘレスからオファーをいただき、前の年の早いうちに決定していました。作品のタイトルの『トダ・ウナ・ビダ』は、私の大学時代からのモチーフなんです。当時日本でも有名だったメキシコのラテン音楽グループ、トリオ・ロス・パンチョスの持ち歌で、ゆったりした美しいメロディーで、スペインでもカンシオンのマダムといわれたマリア・ドロレス・プラデーラや、フラメンコではマイテ・マルティンやミゲル・ポベーダも録音しています。音大に通っていた頃いつも歌っていた大好きな曲で、私をスペイン語に導いてくれた大切な歌でもあります。今回のヘレスの公演ではオープニングに採用しました。「あなたに一生涯を捧げたい」という歌で、フラメンコに一生涯をかけて身を捧げたいという私の気持ちに合致したんです」


 今回の公演では、踊り手としても歌い手としても活躍する今枝友加が日本から参加した。彼女は2018年のフェスティバル・デ・ヘレスでの公演『フラメンコナウタ』でも小島と共演している。


「優秀な人をヘレスにご紹介したいと思っていまして。コロナ禍の前に上演した彼女のリサイタル公演を拝見して、頑張ってる人を応援したいなと思いました。彼女の活躍や素質には注目していました。私は日本フラメンコ協会に30年近くいて、新人公演をずっと観てきましたが、2003年に歌で奨励賞を取って、次の年には踊りで受賞して、2年連続で素晴らしい実力を示しました。でも本当はフラメンコって、そうなんですよね。フラメンコを好きになったら、踊りも歌もみんな好きになるんですね」


 今回の公演の振付は、踊り手としてのみならず振付家としても高い評価を得るハビエル・ラトーレが行った。今や小島の舞台作品には欠かせない存在で、その始まりは2007年に遡る。


「彼は元々はバレエ・ナショナルの踊り手で、その後振付家として迎えられて、当時は国立劇場でも素晴らしい作品の振付をしていました。私はそれまで自分史のような作品を主に作っていましたが、初めてスペインの作家フェルナンド・デ・ロハスの『ラ・セレスティーナ』を題材に選んだ時に、これを描くには自分の手だけでは負えない、自分の振付だけでは足りないと思いました。もう少しあらゆる面で、スペイン語だと”coreograficamente”な部分で、それと台本の宿している意味の理解とか、1時間の作品を作るためには自分だけの目よりもプラスアルファが多い方がいいと思い、彼に振付を依頼しました。作品の流れや、人間像をより深く掘り下げるためにも、彼の力は必要でした」


 以後、『運命の力』や『ア・エステ・チノ・ノ・レ・カント』など、小島の作品作りで要の存在となっている。


小島章司 第27回フェスティバル・デ・ヘレス

チクエロ(左)、ラトーレ(中央)とカーテンコールに立つ/Foto por ANA PALMA


「私は彼の振付の並外れた才能を信頼しています。もう彼は”familia artistica”なんです。ラトーレやロンドロ、そしてチクエロも、私の芸術には欠かせない存在です。ロンドロは初めて会ったのは18か19歳ごろの時です。彼らが出演した昨年11月の公演は特に作品の水準が高く、日本だからじゃないけど彼らが円熟期を迎えているので、それを観ることができたお客様は幸せだと思います。私が彼らと知り合いこの何十年の中で、お互いに築き上げた信頼とか、高めてきた芸術性みたいなものが表れ、時間を無駄に過ごしてない、と実感しました」


 昨年11月、小島は門下生の北原志穂との共演で、東京芸術劇場シアターウエストで2日間の公演を行った。この作品にはロンドロやギタリストのチクエロが出演。彼は1998年から、小島の舞踊団で音楽監督を務めている。


「チクエロと初めて知り合ったのは彼がエル・フラメンコに来た時でした。私がパリのユネスコ本部に招聘されて行った年(1993年)に初めてチクエロが来日して、その年あたりから彼と共演しています。彼はバルセロナの出身なんですが、当時のバルセロナではペドロ・シエラやホセ・ルイス・モントンなどが台頭してきて、互いに切磋琢磨していた時代でした。それぞれに素晴らしい音楽性やフラメンコ性がありましたが、私は偶然ご縁があってチクエロに出会いました。彼の素晴らしい才能や音楽性はもちろんですが、もともと彼は歌を志していたので、歌のこともよく解るからいろいろ教えてくれます。今回のメンバーのマルティンみたいな音楽大学を出ているようなチェリストとの共演も大丈夫だし、音楽面では盤石の信頼を寄せています。特に今回の公演では、スペインにもちょっと無いような音楽世界を表現できたのではないかと思います」


 この東京芸術劇場での公演は、北原からのオファーだったという。


「ちょうどあの劇場が抽選で取れたそうで、北原さんからぜひ先生に踊っていただきたいとオファーされました。テーマはお任せだったので、私が台本やプログラムを書いて自分でいろいろ構成を組んで、最後はお互い1曲ずつソロを踊りましょう、と。公演の内容も全部が重いとか全部が軽いとかでなく、二人で踊ったり声楽家のバリトンの独唱を組み入れたりと、いろんな色が楽しめるカラフルな作品になったと思います。

 バリトンの上野くんは、実は私の歌の弟子なんです。同時にフラメンコの弟子でもありますが……。スペイン音楽のコンクールに出るということでスペイン歌曲などの指導をして、見事に優勝しました。彼の才能を私はすごく高く評価していたのでデビューを薦め、今回が彼のデビューステージとなりました」


 久しぶりにスペインからアーティスト達を招聘した今回の公演。近年ではあまり日本で劇場公演に出演することが無くなっていたが、それには準備期間が十分に取られないことへのもどかしさがあるからだという。


「私が劇場公演をやるときは、スペイン人が来たら最低でも1週間や10日は合わせて練習します。それこそ『ラ・セレスティーナ』のような大きな作品だったら、スペイン人が来たら公演も含めて4週間とか。もちろんその前にも自分で時間をかけて準備したり。そのくらいやらないと、ちゃんとしたものは作れないですよね」

 

 今も変わらず舞台の第一線に立つ。現役の踊り手であり続けるために、どのように身体を維持しているのだろうか。


「私も先日の10月1日で84歳になりましたけど、日々毎日、いつ踊れと言われても踊れるような肉体と心は維持してきました。トレーニングは、今は近場にある民間のフィットネスジムに週2回くらい行ってます。1回行くと2時間前後ですね。以前は国立競技場にトレーニングセンターがあって、建て替えるまではそこを利用していました。あの頃は競技場が全部使えて、トラックも走れるし中2階には650メートルの回廊もあったので、30~40分走ってウエートも軽くやって、ストレッチや一番大事なお腹やお尻を締めることもやって。多い時は1日6時間くらいやっていましたね。

 それと、スタジオで踊るのとは別に、週に2回くらい自宅でヨガとストレッチを、2時間くらいやっています。体の維持とは思ってないけど、やはりそのくらいやってないと、人前では踊っちゃいけないと思います。理事会に出ても、帰るときに「早く帰って家でちゃんと練習しなさい」とみんなに言ってます(笑)。その他にも、声楽をやってましたから腹式呼吸でしたので、呼吸法なども続けています」


 長年にわたり日本のフラメンコ界を牽引してきた小島。自分の後に続く若い世代へ、伝えたいことを尋ねてみた。


「先日の日本フラメンコ協会主催の全国公演でも『フラメンコのちから』と謳っていますが、フラメンコにはすごい力があるから、求めれば向こうの方からいっぱい教えてくれます。私は自分の命よりもフラメンコが一番大事に思っています。そのように生きてきましたから」


 スタジオには今も多くの練習生が通っているが、フラメンコへの向き合い方には個人差があるようだ。


「やはりいろんな生徒さんがいますよね……。日本ではいつの間にかカルチャーセンターなどでも習えるようになって、趣味としてやっている人が多いですよね。だから、その中で自分がどのくらいフラメンコに肉薄していきたいのか早く見極めて、マドリードでもバルセロナでもセビージャでもヘレスでも、とにかく現地に行かないと。そこで、比較文化論みたいなものを、自分の中で整合性を合わせていくことが望ましいと思います。もし自分がもうちょっとやりたいと思うなら、早く行動しないと。でも経済的な負担も大きいから、行っても半年とか、早く帰ってくる人もいますね。うちでもそういう人は何人も見てきました」


 確かに、日本からはるばるスペインの地でフラメンコ修行をするには、レッスン代に滞在費にと経済的負担は大きい。小島の場合はどうだったのだろうか。


「私の頃は、向こうに行って1年くらい経ってから仕事のオファーをもらってずっと滞在していました。帰国した頃はフランコ総統が亡くなって政権が変わり、ビザの取得とかが混沌としてしまっていたので、そうならないと私はまだ帰ってこなかったかも分からない。だから私にとってはいいターニングポイントになりました。それまでスペインにいた頃は、実績を積み重ねながらずっと働いていました。セビージャのロス・ガジョスで半年、その後はマヌエラ・カラスコやマティルデ・コラルたちと一緒に公演とか、次はカナリア諸島で半年、それからウエルバのタブラオに呼ばれたり。セビージャにいる間もいろんなフェスティバル出演のオファーがあったりと、仕事も途切れずどこに行ってもプロフェッショナルと認めてもらえて、経済的にもスペイン人と変わらないギャランティーを頂いていました。そういう人は日本人としてはなかなか多くないかもしれませんね。

 今スペインでは、例えば中田佳代子さんがバルセロナで頑張っていますね。何年か前にヘレスで拝見しましたが、素敵な踊りで実力もお有りで。新人公演に出られていた頃から上手だと思っていました。他にもスペインで活躍されている日本の方々には、みなさん頑張ってほしいですね」


友人が描いた青年時代の小島章司の肖像画
友人が描いた青年時代の小島の肖像画(金子撮影)

【プロフィール】

小島章司(Shoji Kojima)

フラメンコ舞踊家。1939(昭和14)年、徳島県生まれ。海に恵まれた環境で少年時代を過ごす。武蔵野音楽大学声楽科卒業。声楽とピアノ、クラシックバレエ、モダンダンスを学び、フラメンコに出会う。1966年にシベリア鉄道経由で渡西。修行を積みながら数々の劇場公演やタブラオなどで舞踊活動を行う。1976年に帰国記念公演を行い、以来日本国内や海外にて多数の劇場作品を発表する。それらの創作活動は高い評価を受け、文化庁芸術祭賞や芸術選奨文部大臣賞など多数の賞を受賞し、また自身も紫綬褒章、文化功労者、旭日重光章など数々の栄誉に輝く。2020年の第24回フェスティバル・デ・ヘレスでは『ロルカ×バッハ』を世界初上演し、観客を魅了した。2016年にはスペインのヘレス・デ・ラ・フロンテーラ市よりフラメンコ名誉特使として任命を受ける。

(公式HPより抜粋)



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