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萩原淳子 受賞インタビュー

第63回カンテ・デ・ラス・ミーナス国際フェスティバル コンクール

舞踊部門 優勝(デスプランテ賞 受賞)


(sábado, 31 de agosto 2024)

 

聞き手/志風恭子

Entrevista por Kyoko Shikaze

 

ムルシア州ラ・ウニオンで開催された第63回カンテ・デ・ラス・ミーナス国際フェスティバルのコンクール。

1961年にカンテのコンクールとして始まったこのコンクールはスペインで最も有名なコンクールで格式も高く、これまでにマイテ・マルティンやミゲル・ポベーダら多くの才能を世に送り出してきました。

1981年にギターソロ部門が始まり、舞踊部門が始まったのは1994年。ハビエル・ラトーレ、イスラエル・ガルバン、ラファエル・カンパージョ、ラ・モネータ、パトリシア・ゲレーロ、エドゥアルド・ゲレーロなど錚々たるメンバーが受賞者として名を連ねるデスプランテ賞を今年勝ち取ったのは萩原淳子、La Yunko。

舞踊部門初のスペイン以外の国出身者の優勝で(*同コンクールで2009年に始まった楽器部門では2021年にカナダ出身のララ・ウォンが優勝している)、1995年に鎌田厚子AMIがコルドバのコンクールでグアヒーラを踊ってラ・アルヘンティニータ賞を受賞して以来の快挙です。

2002年からセビージャを本拠地として活躍している彼女にセビージャで話を聞きました。



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©Kyoko Shikaze

――今回のエントリーを決めた動機や理由、きっかけなどありましたら教えてください。

「10年くらい前、一度このコンクールで予選落ちしたんですよ。その後、夏はずっと日本でクルシージョなどしていてラ・ウニオンとはご縁がなかったんです。でも今年は、夫の親が体調を崩してしまって、スペインに残ることになりました。それで夏をどう過ごそうかと思っていたのですが、ラ・ウニオンがある、今年出られるかな、とか思い始めて。逆に今年出ないとこれから先出られるか分からないし、と。それに申し込んでも年齢も行っているのでそれで足切りされるかも、などすごく悩みました。毎日夫に、出ようかな、やめようかな、と言っているくらい。でも最終的に今年を逃したら二度と出られないかも、ということで、とりあえず申込書を出すのは誰でもできるから出そうと。最終日か、期日の最終日の前日かに、すごくギリギリに出したんですよ」

 

――申込書を出した、と。でその後、主催者からの連絡は?

「1回あったんですよ。この日に予選に来られますか、と。でもその日がダメで。あ、そうですか、と電話を切られそうになったんで、要項に予選の期日は候補に出された2日から選ぶことができるとあったので、そう言ったら。ああ、じゃあ、ということで、ひょっとしたら、と言われたものの、うやむやなままで、それがずっと続いて。ずーっと、伸ばされたんで、もうこれはだめかな、と思ったんですが最終的に、7月20日サグントで、と決まって、そこからアーティストを探しました。決まってから1ヶ月もなかったと思います」

 

――コンクールのための練習はいつから?

「前からなんとなく、応募するかどうか迷っていた時期から、なんとなく構想はしていたというか、時間制限があるので、それにあわせて、予選に通ることも想定して、こんな感じかな、と頭の中にはありました。申し込む前から頭の隅にはあったんですね。制限分数の中にまとめる作業ですかね、踊りはもともとあるので、タラントだけでなく、予選でもう一曲踊らなくてはいけなかったので、マントンでカンティーニャを踊りました」

 

――予選、バタで踊らなかったのには理由がありますか?

「それも、おこがましいんですけど、準決勝に行くことを想定していたんですよ」

 

――でも予選と準決勝は同じ曲でも大丈夫ですよね。

「変えるものだと思っていたんです。というか、私自身、変えたいなと思っていて。ルールでは変えなくていいとしても、私の予想として、もし僅差だった場合、レパートリーが多い方がプラスになるかと思ったんです」

 

――それは今年から、予選から決勝まで同じ審査員が審査するというのが要項に書いてあるのを読んでいたからですか?

「いや、それは知りませんでした。ただ、自分がもし審査員だったら、同じくらいの人でどっちを通すかという場合、印象点じゃないけど、この人はこの曲も踊ったよね、マントンもバタも見せたよね、という方が、評価されるのかな、って。自分が審査員だったら、僅差の時にそういう評価の仕方もあるのかな、と思ったんですよ。実際よく聞くのが、本当かどうか分からないですけど、バタ・デ・コーラで踊った人の方がそうじゃない人よりも評価されると聞いたこともあって、それでバタは準決勝にと思っていたんです。

 準決勝はバタで踊りたいとずっと思っていたんですよ。だから予選ではカンティーニャをマントンで踊ったんです。ギタリストのニョニョからもなぜカンティーニャをもう一回踊らないんだ、とすごい言われたんですけど、準決勝で曲を変えたい、と強情に言って、それで変えたんですね。

 決勝は、決勝に進んだ3人ともタラントを踊ると思い込んでいたんです」

 

――それは要項の記載が明確じゃなかったからですね。

「誰も他の曲を準備していなかったんですよ。皆タラントを12分以内で作ってそれを踊ろうと思っていたんです」

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決勝でのカンティーニャス©︎ Paco Manzano

 

――コンクールで結果を出すために、意識した事や心掛けた事はありますか。

「カンテを聴く、カンテ・デ・ラス・ミーナスのコンクールだから、そのグループのカンテを聴きまくる。コンクールに限らず、自分がフラメンコを踊る上で、カンテを聴くとか、カンテに答えるとか、それぞれの曲種で雰囲気も成り立ちも違うから踊りが変わって当然じゃないですか」

 

――普段から意識してそうしているけど、このコンクールに出る、結果を出すということで今回はミネーラ、タランタ、タラント、カルタヘネーラなどカンテ・デ・ラス・ミーナスをいっぱい聴いた、ということですね。

「全部。いや全部じゃないかもしれないけれど、聴ける範囲のものは色々、特に昔の歌い手を聴いて。最近の歌い手のものはあまり聴いていないですね。昔のカンテをとにかくよく聴きました。またこの種のカンテの成り立ち、歴史、どういう風に生まれて、どういうふうに伝わってきたのか、とか、背景とかも知ることが必要だと思うんですよ。カディスのアレグリアスのコンクールに出るならカディスのアレグリアスを聞き込む、ピニーニのカンティーニャスのコンクールならピニーニのカンティーニャを聞き込む。そういったことが必要だと思うんです。土台を知らずに踊るのは、それはちょっとおかしいと私は思うんです。今は探そうと思えばいくらでも音源はあるし。でもこれはコンクールに出ようと思ってやり始めたというのではなく、もうライフワークみたいなもので、ずっと昔からやっていました」

 

――それが審査につながると思ってやっていたのでしょうか。

「いやライフワークなので、コンクール以前に、たとえばタブラオでタラントを踊りますよね、そういう時、私はカンテを知らずに踊るのはおかしいと思うんですよ。聴くのも好きだし、聴いたり、勉強したりするのは、もう何年も前からライフワークみたいな感じで続けていることで、それがあって、コンクールに出るから、というのでガーっと集中的にやったというのはありますね。まだ聴き足りないと思うけど」

 

――コンクールのために普段の生活を変えた、ということもありました?

「あまり変わりません。ただ、予選に出ると決まってからは、集中するために、オンラインの個人レッスンをお休みさせてもらいました」

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予選でのカンティーニャ©︎ Festival Internacional de Cante de Las Minas

 

――予選や決勝で、特に印象に残っていることはありますか。

「予選はとにかく暑くて、サウナみたいで、湿気で床が濡れていたんですよ。そのくらい暑くて、ギタリストも手が滑って弾けない、っていうくらいの、そんな状態で。思ったのは、予選の会場が別れているのはまあ、いいと思うんですが、条件があまりに違うのはどうなんだろう、と。空調が効いた劇場と汗ダラダラの屋外、床が滑るようなとことでは…」

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準決勝でのタラント©︎ Festival Internacional de Cante de Las Minas

 

「準決勝では、ラ・ウニオンの会場が、あんなに客席が丸見えだとは知らなかったのですよ。劇場みたいなところだと思っていて。前は予選落ちだったし、行ったことなかったんです。遠いから行かないですよ。舞台から客席が丸見えで、それでガーっと上がっちゃったというか。場当たりの時は客席が暗かったので、最前列くらいしか見えなかったのが、本番は丸見えで、一番後ろまで全部見えました」

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準決勝、決勝を支えてくれた、ペペ・デ・プーラ、モイ・デ・モロン、エンリケ・エル・エストレメーニョ、ニョニョ。(本人提供)

 

「今回ラッキーだったことはエンリケ・エル・エストレメーニョとぺぺ・デ・プーラ、モイ・デ・モロンと3人の歌い手が揃ったということですね。私にとっては幸運の女神様!って感じで。予選の時は準決勝、決勝のメンバーの中ではモイとニョニョ、だけだったんです。あとタラゴナのフアンホ・デ・ナジェリという歌い手にも来てもらいました。準決勝は、歌い手3人がいいな、と思った時に、ギターがニョニョだからエンリケに頼んでみようかな、と。で、モイがよくぺぺと仕事しているし、と。その二人も大丈夫で、しかもぺぺは私の準決勝の日しか空いてなかったんですよ。モイもそうで、二人は一度セビージャに帰って、決勝の日にもう一度来てくれたんですよ。そんな素晴らしいアーティストが見つかったというのもラッキーだったし、決勝に来てくれたというのもありがたかったです。遠いので。1回帰って夜中仕事して、ほとんど寝ないでまた車を7時間運転して帰ってきてくれて、離れ業ですよ。それをやって下さったからで、感謝しています」

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©︎ Festival Internacional de Cante de Las Minas

 

――優勝が発表されたときの率直な感想を教えてください。

「もう信じられなかったです。もう本当に信じられなくて、なんかね、体とかがブロックされちゃって、頭も真っ白になっちゃって。楽屋から階段を登って舞台に出て行くんですけど、階段も登れなくて、歩くのもやっとというくらい」

 

「舞踊が呼ばれるってまだ知らなくて、一瞬楽屋に入って、出てきた瞬間に呼ばれたから、みんながいるところにはいなくて、そのせいでカメラもあれ、どこ?みたいな感じで。

 決勝での踊りは、自分の中ではもう最悪、という気持ちでした。まあ、これはいつものことなんですけど、楽屋でガーンみたいな感じで。もうホテル帰ろうよ、とか言っていて。自分ではあんな踊りじゃなあ、と思っていたし。でも自分の感覚と外から見たのと違うことってあるじゃないですか。だからモイなんかは、それはお前の感覚だから、外の人は他の見方をしていることもあるし、結果が出るまでわからないし、と言ってくれて。でもとにかく自分の感覚ではガーンだったので、賞とか、もう。決勝に出ることが出来ただけで私にとってはもう賞をもらったみたいなものだったので。アントニオにも釘を刺されていて、日本人だし準決勝に行っただけでもう受賞同然、と言っていて。準決勝から決勝までがほとんど時間もなかったしジェットコースターに乗っているみたいで、感覚がついてこなかったというか」

 

――客席からは他の踊り手を応援していた人たちからの審査員へのブーイングが起こりました。それは聞こえましたか?

「なんか言っているな、とは思いました。あとパッと見て、拍手していない人もいるな、と思って。でもそれよりもデスプランテ賞のトロフィーがすごく重くて、こんなに重いんだ、とびっくりしたのと、その重さが、賞の重さと自分がキャリアを続けて行く上での責任の重さなんだ、と、また頭がわーっとなって。だからブーイングはそんなに気になりませんでした」

 

――スペイン人の踊りと日本人(またはスペイン以外の国の人)の踊りにもし違いがあるとすれば、それはどんな点だとお考えになりますか。

「一括りにするのは危険だと思います。スペイン人だから良いとか、外国人だから悪いとか、もないと思うし、人によるんじゃないでしょうか。言葉とか、最初に学ばなくてはいけないとか、生まれた土地の自分の文化ではないから、そういうのとか、ハンディキャップもありますけど。また、外国人だから、日本人だから、という偏見はあるじゃないですか。でもそれもアンダルシア人はいいけどそれ以外は、とかいう人もいるし、ヒターノがいいとか悪いとか、声の質での偏見もありますしね」

 

――今後の活動予定は。

「ベンタ・デ・バルガスやタリファのタブラオなどコンクール以前に決まっていた仕事もあるし、コンクール優勝したことでフェスティバルから派遣されて9月28日にスウェーデンで踊ることになったし、10月から11月中旬まで日本に行ってクルシージョをしたりします。まだ、コンクールがきっかけでの仕事というのはきていませんが、待っています(笑)」

 

――バイラオーラとして目指す「在り方」などありましたら教えてください。

「アフィシオナーダでい続ける、ことでしょうか」 

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決勝でのカンティーニャス©︎ Paco Manzano

 

アフィシオナード、アフィシオナーダという言葉はアマチュアという意味でも使われることもありますが、もともと「熱中している人、愛好家」という意味。フラメンコで、たとえば、プロの歌い手のことを彼はいいアフィシオナードだね、というのは、本物のフラメンコ好きでよく勉強しているね、という褒め言葉になります。

いつまでも純粋にフラメンコを愛し続ける踊り手でいたいという萩原。その、本物の愛と敬意が伝わってこその優勝だったのでしょう。

おめでとうございます。そしてこれからもさらなる飛躍を!


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優勝者たち、左からギター部門ジョニ・ヒメネス、萩原淳子、大賞ヘスス・コルバチョ、楽器部門ホセ“エル・マルケス” ©︎ Festival Internacional de Cante de Las Minas

 

2024年8月21日セビージャにて。

 

【動画】

準決勝二日目全編

萩原淳子 タラント

萩原淳子 ソレア

 

決勝全編

萩原淳子 カンティーニャス

 

授賞式

 

【萩原淳子 情報】

◎オンラインクラス

インタビューの中で“ライフワーク”だと言っている、曲の研究によるクラス。タラントを踊る人だけでなく、歌う人や見る人にも勉強になるはず。


カンテ・デ・ラス・ミナスコンクール優勝記念

萩原淳子オンライン講義「タラント研究」

 

📝クラス内容:

①カンテ音源を使用し、タラントを含む鉱山の歌グループの歌の背景や歌の内容への理解を深める

②バイレ動画を使用し、歌と踊りの絡みや、歌にどう呼応して踊るのかを研究する

 

📌全7回分アーカイブ(Youtubeリンク)9月末までご視聴OK

📌全7回分資料メール送付

📌9/23(月祝)20:00より特別補講(zoom、アーカイブあり)

 

⭐️受講料:19,500円

⭐️お申込先:onlinelayunko@gmail.com(ハギワラ)


G_2408萩原IV_オンライン講座

 

◎日本でのクルシージョ

第32回少人数制クルシージョ(東京)

10/5~11/16開講

 

第23回大阪クルシージョ

11/2(土)開講

 

第23回福岡クルシージョ

11/3(日)・4(月)開講

 

 

【聞き手プロフィール】

志風恭子(Kyoko Shikaze)/1987年よりスペイン在住。セビージャ大学フラメンコ学博士課程前期修了。パセオ通信員、通訳コーディネーターとして活躍。パコ・デ・ルシアをはじめ、多くのフラメンコ公演に携わる。

 

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